安全配慮義務という重要かつ難解な課題について
安全配慮義務とは?労働契約法5条の基礎知識と企業が問われるリスクを産業医が解説
「安全配慮義務」という言葉を耳にしたことはあっても、その具体的な範囲や違反した場合のリスクを正確に説明できる人事・労務担当者は意外と少ないのではないでしょうか。
しかし、この義務の理解不足は企業にとって致命的なリスクに直結します。社員一人の健康問題が、最終的に億単位の損害賠償・刑事責任・社会的信用の失墜という三重苦をもたらした事例は、決して過去の話ではありません。
本記事では、産業医として多くの企業の現場に関わってきた立場から、労働契約法5条の意味、判例が示してきた義務の射程、そして企業が今すぐ取り組むべき実務上のポイントを解説します。
1. 安全配慮義務とは何か
安全配慮義務とは、使用者(企業)が労働者の生命・身体・健康を危険から守るために必要な配慮を行う義務のことです。
労働契約法第5条は次のように定めています。
労働契約法第5条(労働者の安全への配慮) 使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする。
注意したいのは、この条文は2008年に明文化されたものであり、それ以前から判例法理として確立していた義務を追認的に法律化したものだという点です。つまり、法律上の義務であると同時に、長年の裁判例によって具体的な内容が積み重ねられてきた、いわば「生きた義務」なのです。
条文自体は短くシンプルですが、この一文の背後には数多くの過労死・過労自殺裁判の積み重ねがあります。とりわけ重要な判例が、次に紹介する電通事件です。
2. 労働契約法5条の成立背景——電通事件(1991年)が変えた潮流
安全配慮義務を語るうえで避けて通れないのが、電通事件(最高裁平成12年3月24日判決)です。労働契約法5条が制定される8年前のこの判決は、現在に至るまで企業の労務管理の在り方を規定し続けています。
事件の概要
1991年8月、電通に入社2年目の男性社員(当時24歳)が自宅で自殺しました。月の残業時間は140時間を超える月もあり、深夜まで及ぶ長時間労働が常態化していたとされています。遺族は、過重労働によりうつ病を発症して自殺に追い込まれたとして、会社を相手取り損害賠償を請求しました。
判決のインパクト
最高裁は、使用者には**「業務の遂行に伴う疲労や心理的負荷等が過度に蓄積して労働者の心身の健康を損なうことがないよう注意する義務」**があると明確に判示しました。
それまで「自殺は本人の自由意思によるもの」とされてきた中で、企業の安全配慮義務違反が過労自殺の責任根拠として正面から認められた点が画期的でした。
さらに重要なのは、二審で認められた「本人の性格(完璧主義)」「両親が異常に気付かなかったこと」を理由とする3割の過失相殺について、最高裁が**「労働者の性格が通常想定される範囲を外れない限り、賠償額算定に斟酌すべきでない」**として違法と判断したことです。これは、企業側が「本人が真面目すぎた」「家族が止めなかった」といった被害者側の事情を持ち出して責任を軽減することを難しくする、極めて重要な判断でした。
最終的にこの事件は、約1億6,800万円の支払いで和解に至りました。
法律への明文化
電通事件以降、過労死・過労自殺をめぐる損害賠償請求は急増しました。判例の蓄積を踏まえて2008年に制定されたのが、現行の労働契約法5条です。つまり同条は、電通事件をはじめとする一連の判例が確立した「企業の責任」を法律のレベルで確定させたものといえます。
3. 四半世紀後、同じ会社で再び——高橋まつりさん事件(2015年)
電通事件の最高裁判決から15年後、同じ電通で再び痛ましい事件が起きました。
事件の概要
2015年12月25日、入社1年目の女性社員・高橋まつりさん(当時24歳)が、クリスマスの朝に自ら命を絶ちました。
労災認定の根拠とされた1か月の時間外労働は約105時間。一方で遺族側の積算では130時間に達したとされ、会社への申告は労使協定上限の70時間に抑えるよう実態と乖離した申告がなされていたと報じられています。長時間労働に加え、業務外のイベント準備、職場でのハラスメントなども指摘されました。
2016年9月、三田労働基準監督署が長時間労働を原因とする労災として認定。2017年には電通自体が労働基準法違反で略式起訴され、罰金50万円が確定しました。
この事件が示したもの
高橋まつりさんの事件は、単なる「もう一件の過労死」ではありませんでした。それは、1991年の電通事件によって最高裁が安全配慮義務を厳しく問うてから四半世紀が経ち、労働契約法5条も施行されて7年が経過してもなお、同じ会社で同じ構造の悲劇が繰り返されたという事実を社会に突きつけました。
この事件は社会的にも大きな衝撃を与え、働き方改革関連法の議論を加速させる直接的な契機の一つとなりました。2019年から段階的に施行された時間外労働の上限規制(罰則付き)は、この流れの帰結といえます。
産業医の視点から見たとき、二つの電通事件が示しているのは次のことです——個人の意識や努力、断片的な対応では不十分で、組織として「健康を守る仕組み」が機能していなければ、悲劇は再び起こる。判決や法律の存在自体は、企業の現場を変える力を持たないのです。
4. 安全配慮義務の射程——どこまで配慮すべきか
実務上、企業が押さえておくべき安全配慮義務の範囲は次の3領域に整理できます。
① 物理的・身体的安全
設備の安全、危険物管理、防護具の支給、作業環境の整備など、労働安全衛生法令に基づく古典的な領域です。製造業・建設業ではもちろんのこと、オフィスワークでも転倒・腰痛・VDT障害(いわゆるVDT症候群)などへの対応が求められます。
② 健康(メンタルヘルスを含む)への配慮
電通事件以降、最も訴訟リスクが高まっている領域です。長時間労働の抑制、ストレスチェックの実施と事後措置、健康診断結果に基づく就業上の措置、復職判定など、産業保健の中核的な領域がすべて含まれます。
特にメンタルヘルス不調については、身体疾患と異なり外見からの判別が難しく、本人からの申告も期待しにくいという特性があります。だからこそ、企業側が「気付ける仕組み」を持つことが決定的に重要になります。
③ ハラスメント・職場環境
パワハラ防止法(2020年施行、中小企業は2022年)により、ハラスメント対応も安全配慮義務の一環として明確に位置付けられました。社員間のトラブル放置、相談窓口の形骸化なども、企業の責任を問われる時代です。
5. 違反した場合の企業リスク——三つの方向から襲う
安全配慮義務違反は、企業に対して多面的なダメージをもたらします。
リスク① 民事上の損害賠償責任
最も直接的なリスクです。電通事件の1億6,800万円はやや特殊な事例にしても、過労死・過労自殺案件では数千万円〜1億円超の賠償が命じられる事例が珍しくありません。
加えて、近年の判例では、本人の性格や家族の対応を理由とする過失相殺が認められにくくなっており、企業側の負担は重くなる方向にあります。
リスク② 刑事責任・行政処分
労働安全衛生法違反として書類送検されたり、労働基準監督署からの是正勧告・改善命令を受けたりするケースもあります。高橋まつりさんの事件で電通が労基法違反で起訴されたように、法人として刑事責任を問われる可能性は現実のリスクです。書類送検や起訴は会社名と代表者名が公表されるため、後述のレピュテーション被害と直結します。
リスク③ レピュテーション・採用への影響
現代では、賠償金額そのものよりも社会的信用の毀損が経営インパクトを上回るケースが多々あります。
- SNS・口コミサイトでの拡散
- 採用市場での敬遠(「ブラック企業」レッテル)
- 取引先からの信用低下
- 既存社員のエンゲージメント低下と離職連鎖
これらは数値化しにくいだけに、復元にも長い時間とコストを要します。高橋まつりさんの事件後、電通がブランドイメージの回復と社内体制の刷新に投じたリソースは、本来であれば未然防止に振り向けられるべきものでした。
6. 実務でよくある落とし穴
産業医として企業の現場に入ると、次のようなパターンを頻繁に目にします。これらはいずれも安全配慮義務違反のリスクを高める典型的な状況です。
形式的な健康診断・ストレスチェックの実施 法令対応のために実施はしているものの、結果に基づく就業措置や面談に繋がっていないケース。「やっていること」と「機能していること」は別物です。
長時間労働者への医師面接の未実施・形骸化 月80時間超の時間外労働者への面接が抜け落ちていたり、本人が拒否したことを理由に放置していたりするケース。企業側の働きかけ義務は残ります。
労働時間の過少申告の黙認 高橋まつりさんの事件でも、申告上の残業時間と実態が乖離していたことが問題視されました。申告の数字だけを見て「適切に管理している」と判断することは、現場の実態を見落とす最大の落とし穴です。
異変に気付いた管理職が動けない 顔色・言動の変化に上司が気付いていながら、誰にどう繋げばよいか分からず放置されるパターン。電通事件でも、上司が異常に気付いていながら業務調整がなされなかった点が責任認定の決め手となりました。
復職判定が主治医任せ 主治医の診断書だけで復職を決めてしまい、職場の業務負荷との適合性が検討されないケース。再発・再休職の温床となり、安全配慮義務違反を問われる根拠にもなります。
7. 産業医をどう活用するか——「仕組み」として組み込む発想
ここまで見てきた通り、安全配慮義務への対応は個人の意識や善意では再現性を持ちません。電通の二つの事件が示すように、判例も法律も、現場の仕組みに落とし込まれなければ社員の命を守る力にはならないのです。
産業医の活用も同じです。「契約産業医がいる」「面談を実施している」といった事実だけでは不十分で、会社の体制・仕組みの一部として産業医が機能している状態を作ることに本質があります。
ここでは、特に重要な3つの仕組みづくりの観点を紹介します。
① 復職判定基準を「事前に」明確化する
復職トラブルの多くは、判定基準が曖昧なまま個別案件に直面することから生じます。「主治医が復職可と言っているが、現場は不安」「前回も早期に再休職した」——こうした状況で都度議論していては、判断は属人的になり、トラブル化しやすくなります。
事前に会社としての復職判定基準(復職プログラム)を明文化しておくことには、次のような大きなメリットがあります。
- 判断のブレをなくす:誰が判断しても同じ結論になる仕組みは、社員間の不公平感や恣意的運用への疑念を防ぎます
- 本人・主治医・産業医の共通言語ができる:「どの状態になれば復職可と判断するのか」が事前に共有されていれば、休職中の治療目標も明確になり、リハビリ出勤や段階的復帰の設計もしやすくなります
- 訴訟リスクへの備え:万一争いになった際に、「会社は基準に基づいて公正に判断した」という事実が、安全配慮義務を尽くした証左となります
- 再発・再休職の予防:曖昧な基準で早期復職を許すことは、本人にも会社にも不利益です。明確な基準は中長期の安定就労に直結します
産業医は、この復職判定基準の設計・運用に医学的知見を提供する立場であり、基準の策定こそが産業医活用の最も重要な領域の一つといえます。
② 管理職の役割を「気づく・聴く・つなぐ」に絞り込む
メンタルヘルス対応において、管理職に過剰な役割を期待してしまう企業は少なくありません。「部下のメンタル不調に対応するのは上司の責任」と曖昧に丸投げしてしまうと、管理職は不調者の治療や復職判断まで抱え込もうとして疲弊し、結果として手遅れになるケースが多発します。
産業医の視点からは、管理職の役割は次の3つに明確に絞り込むべきだと考えています。
- 気づく:いつもと違う様子(顔色・遅刻早退の増加・ミスの増加・口数の減少など)に気付く感度を持つ
- 話を聴く:判断や助言は不要で不適切。周りに聴かれないように配慮した上で、まずは本人の話を聞くことに注力する。業務遂行上の支障がある際の指摘はするべきだが、批判・非難は注意すべき。話を聞く(傾聴)ことと、相手が言っていることは理解したことの表出(共感)は重要だが、「あなたの言うとおりだ(同調)」は殆どの場合避けるべき。
- 橋渡しをする(産業保健職へパスを出す):上長や管理部門が自分で抱え込まず、産業医・保健師など産業保健職へつなぐ
裏を返せば、「治療方針を考える」「復職可否を判断する」「医学的助言をする」のは管理職の仕事ではないということですが、Googleで調べたりAIに調べてもらったり、これらに終始している管理職は大変多い印象です。
ただ、これらは産業保健職の領域であり、「疾病性」という概念の範疇です。
産業保健の領域では、「疾病性」と「事例性」を切り分けて考えることが推奨され、管理職・会社側に求めるべきはあくまでも「事例性」、即ち当該従業員が「普通に働き続けることができるか」の視点です。
疾病性の視点は重要ではありますが、産業保健職が判断すべきことですし、疾病性の判断がGoogleやAIツールで調べた範囲程度で適切にできるのならばその方はとても医業に向いています。医師免許の取得と医療への従事をお勧めします。
そういった特殊能力がある方もいるかもしれませんが、基本的には会社側の関与者は医学の素人であり、疾病性の観点に踏み込むことは推奨されません。また過去の経験を基に診断に踏み込んだところで、ほとんどは的外れな見解をまき散らすだけです。我々としても相談頂いて、「あなたはそう思うんですね。(まぁどう見ても違うと思いますけど)」とマイルドに流さざるを得ないやり取りが発生するだけです。
産業保健職が会社に求めるのは、早期発見と適切なパス出しに尽きます。
我々は面談の場に連れてきてもらった人と話すことはできますが、そこに来ない人のことを把握することはできませんし、課題があるかもしれない人を見つけることはできません。「見つける」「話を聞く」「つなぐ」こと。
それぞれがそれぞれの役割にしか果たせないロールをこなすことと、自身の範囲を超えるものは他に任せること、それが産業保健です。
この役割分担を社内で明確にし、管理職研修(ラインケア研修)で繰り返し伝えることだけでも、現場の対応力は劇的に変わります。同時に、管理職自身の心理的負担も減り、対応の遅れも減ります。
③ 「人」ではなく「仕組み」で動く体制を作る
産業医を有効活用している企業に共通するのは、特定の人(熱心な人事担当者や問題意識の高い管理職)の存在に依存していないことです。
- 月◯時間超の長時間労働者は自動的に産業医面談の対象となる
- ストレスチェック高ストレス者には決まったフローで声かけが入る
- 休職開始から復職までの各フェーズで、会社の対応や従業員への要求、判断基準などが定義され、同時に産業医の関与ポイントが明確化されている
- 管理職が「気付き」を共有する窓口(人事や産業保健職)が明確になっている
このような仕組みとして体制が回っている状態こそが、安全配慮義務の実効的な履行を意味します。逆に言えば、特定の担当者の異動や退職で機能が止まってしまう体制は、いずれ綻びが出ます。不調者対応は個別対応が必要と思われがちですが、かなり多くの部分が仕組化、共通化可能です。
8. まとめ——「知らなかった」では済まされない時代
労働契約法5条のもとで、企業が負う安全配慮義務の範囲は年々広がり、判例による要求水準も高まり続けています。
電通事件から30年以上、高橋まつりさんの事件から10年が経過しました。働き方改革関連法も整備され、社会全体の意識も大きく変わりました。それでも、現場で起きる悲劇が完全になくなったわけではありません。
重要なのは、法令遵守を「やっていること」のチェックリストで終わらせず、「機能している仕組み」として組織に根付かせることです。これは産業医一人の力でも、人事担当者の熱意だけでも達成できません。経営者・人事・現場管理職・産業保健職が、それぞれの役割を明確にしたうえで連携する体制を作ることが必要です。中でも経営層からのメッセージが最重要ですが、中小企業であるほどこれが一番の難関でもあります。
自社の体制が現在の水準に追いついているか、一度棚卸ししてみることをお勧めします。
弊社へのご相談について
BHB株式会社では、認定産業医による契約産業医サービスをはじめ、以下のような安全配慮義務の履行を実務面から包括的に支援するサービスを提供しています。
- 復職判定基準・復職プログラムの設計支援:自社に合った明確な基準を産業医と共に策定
- 管理職向けラインケア研修:「気づく・聴く・つなぐ」の役割定義に基づいた実践的研修
- 長時間労働者面談・高ストレス者面談:仕組みとして組み込まれた継続的な関与
- 休復職プロセスの体制設計:属人化しない運用フローの構築
- 人事・労務担当者への顧問対応:日常の判断に迷ったときの相談先として
「自社の対応が適切か不安」「制度はあるが実際に機能しているか分からない」「一度専門家に体制を見てほしい」という人事・労務ご担当者さまは、ぜひお気軽にご相談ください。
